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2022年6月22日 更新
那智勝浦町名誉町民の決定について
八咫烏と日本サッカーの生みの親 中村覚之助

 那智勝浦町では、社会福祉の増進や産業文化の振興に 貢献し、その功績が顕著である方に名誉町民の称号を贈呈していますが、令和3年9月10日、サッカーの普及に 大きく寄与し、日本にサッカーを導入した人物である 「中村覚之助氏」を名誉町民とすることが決定しました。


中村覚之助の画像

  中村覚之助

中村覚之助氏の略歴

明治11年5月 現在の那智勝浦町浜ノ宮で生まれる。
  32年3月 和歌山師範学校卒業。
     4月 宇久井高等小学校にて教師になる。
  33年4月 東京高等師範学校入学。
  37年3月 東京高等師範学校卒業。
  38年   清国山東省済南師範学校にて教鞭。
  39年7月 逝去(29歳) ※現代の満年齢表記では28歳

サッカーと中村覚之助氏

内容

日本におけるサッカーの起源は明治6年といわれているが、このころのサッカーはラグビーフットボールと未分化の状態で、明治11年に、のちの東京高等師範学校になる体育伝習所の学校教材として研究され、明治18年には、市販書「戸外遊戯法」の一部でフートボールとして紹介されている。明治29年に東京高等師範学校に運動会組織ができ、フートボール部が誕生した。

 日本で最初に紹介された「サッカー」は「フートボール」と呼んでいた。

 明治35年に、坪井教授が海外視察から帰国し、当時のフートボール部理事の中村覚之助氏が、米国の「アッソシェーション・フットボール」を翻訳してア式蹴球部を創設した。これが日本におけるア式フットボール(現在のサッカー)の始まりである。

 明治36年秋、我が国最初のフットボール書「アッソシェーション.フットボール」を鐘美堂より、東京高等師範学校蹴球部の名で出版している。
 本書では、下記の書籍を参考にした旨が記載されている。

・Foot Ball:By Charles J.B.Marriott and C.W.Slcoock
・Association Foot ball:By C.W.Slcoock
・Association Foot ball:By John Goodall
・Foot ball Who's Who
                      (原文のまま記載)

資料

・明治44年の交友会誌
 東京高等師範学校の蹴球部史編より
 「蹴球の我が東京高等師範学校に入りしは、実に明治35年の春なり。当時米国ウィスコンシン大学に遊学せし坂上某帰朝して、この技術を運動界に紹介したるより我校の同好生40余名相集まりてその技を学びたり。併乍ら是ラグビー式にして我国民の体力に適せざりしかば如何にして之を日本的に改良せんと力めしも事甚だ容易ならず。 偶々本校教授坪井先生の帰朝せらるるあり、是に初めて我校アッソシェーション・フットボールを伝ふ。当時の本部役員には有本久五郎、中村覚之助、森迫武、千葉精一の諸氏ありて実に当部の創始者なり。」

・昭和42年「茗渓」882号 東京教育大学蹴球部史編の、「サッカー(ア式蹴球)」草創のころ」と題した、堀桑吉氏の寄稿より
 「私が明治35年4月、高師1年に入学した時、4年の中村覚之助君が、米国の「アッソシェーション.フットボール」を翻訳してア式蹴球部を作り新入生に入会を勧誘した。私が真っ先に入会し、次いで同級の桜井賢三、瀬口真喜郎、渡辺英太郎、石川文平、粟野信一、嶺豊雄、江坂広雄、2年の塩津環の諸君が入会し合計9名が部員となった。当時、大塚の新校舎が建築中で、全生徒は35年5月、一足先にできた寄宿舎に入舎して、そこから1年間お茶の水に通った。大塚の新運動場の予定地は雑木雑草に埋められていたが、中村君以下部員一同整地に努め、蹴球のフィールドに棕櫚縄を張りめぐらして石灰線の代用としたり、ゴールを建てたりした。一方中村君から蹴球に関する運動規約を習って実施練習を開始した。翌年4月、更に新入生を勧誘して、新帯国太郎、落合秀保、細木志朗等の優秀な諸君多数を迎え、総部員20数名となり蹴球部が確立した。 ・・・・・ 中略 ・・・・・ 越えて38年秋、横浜の米選手を母校運動場に迎えて蹴球試合をした。参観者非常に多く、部員一同大いに奮戦90分間、2対2の引分けとなった。その感激は今も忘れない。
 この時の状況が具に新聞に出たので、全国の中等学校から嘉納(治五郎)校長あてに、蹴球指導方の依頼があり、時の運動部長坪井玄道先生を通じて私たちは群馬師範をはじめ各地の学校へ指導に出かけた。思えば、母校歴代のサッカー部員の大きな努力が実って、今日全国にサッカーの盛況を見るにつけ、揺籃時代の部員として歓喜にたえぬと共に感慨無量である」

日本初のサッカーの試合の記念写真

明治37年2月6日
日本初のサッカーの試合の記念写真

(上の段向かって右から三人目の学生服学生帽の人物が中村覚之助氏)

※ 文面から、おそらく全選手に渡したものと推測される。

写真の裏書き



時維明治37年2月6日
我ガフットボール部選手11名ハ横浜外人倶楽部選手ト横浜公園ニ於テ戦ヒヌ不幸連戦連敗空シク恨ヲ懐イテ帰リシト雖彼レハ之百年老練ノ士我ハ即初陣ノ若武者勝敗ノ決固ヨリ期スル所何ンゾ患フルニ足ランヤ今日以後吾人ノ期スル所ノモノ只遠カラズシテ彼我其位置ヲ轉ズルニアルノミ自愛セヨ健男児
(之レハ是其翌日撮影セシモノ)

やたがらすと中村覚之助氏

内容

 日本における現在のサッカースタイル(ア式フットボール)の起源は東京高等師範学校であり、その生みの親といえるのが中村覚之助氏である。
 さらに、日本全国にサッカーの普及を行ったのも東京高等師範であり、日本のサッカーの歴史そのものである。大正10年大日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)を設立したのも東京高等師範関係者が中心となっている。
 昭和6年に図案化した日本サッカー協会のシンボルマークの三足烏は中国の故事に基づいたものと言われているが、日本においてはまぎれもなく「やたがらす」であり、日本サッカー協会のホームページでは、三足烏(やたがらす)と表現している。
 当該図案の発案者は、当時の東京高等師範学校の内野台嶺教授を中心とする人たちで、内野教授は明治39年頃の蹴球部員であった。中村覚之助氏が逝去した年に訃報を聞き悲しんだ一人である。
 中村覚之助氏が逝去した後の交友会誌等(右記)から、当時の部員(後輩)から神様のように慕われていたのがよくわかる。そのときの蹴球部の中心選手に、日本サッカー協会旗章の発案者といわれている「内野台嶺氏」がいる。中村覚之助氏と内野台嶺氏はこのように繋がっているのである。

 中村覚之助氏の生家は那智勝浦町浜ノ宮であり、生家より200mの所に熊野三所権現(渚の宮神社)がある。旧家なので神社の氏子をつとめていて、幼少の頃より庭のように遊んだ所と推察できる。このことにより、覚之助氏自身が熊野の神社のシンボルである「八咫烏(やたがらす)」の存在を知っていたと容易に推測できる。

 残念ながら、調査では中村覚之助氏と東京高等師範の関係で、熊野とか八咫烏の記述は見つからなかったが、右の明治39年発行交友会誌第11号「故中村覚之助を想ふ」の中の「君の霊は永久に我が部の護神となりて・・・・・・・」から推察すると内野教授らが三足烏を日本サッカー協会のシンボルマーク(護神)として提案したことが、まったく無関係ではなかったと考えられる。 

 さらに、昭和5年には東京高師60周年、昭和6年には東京高師廃止反対運動が展開されている時代背景も併せて考えると、何らかの形で東京高等師範のシンボルとして後世に残しておきたかったのではないだろうか。それがサッカーであり、日本のサッカーの歴史を作ったのは俺たち東京高等師範だということを、例え名前が消えようとも永久に三足烏のマークとして、日本のサッカーの限りない発展を祈って提案したのではないだろうか。

資料

・東京高等師範学校蹴球部史より
 「明治39年4月18日新来多数の気鋭の士迎えて茶話会をひらき、惣ち部員40有余名を得たり。5月5日第一寄宿舎なる二部室は封室競技を行へり。当部の創設者にして清国にある中村覚之助氏及渡辺英太郎氏より多大の寄付あり。7月9日中村覚之助氏の訃音に接す。君は37年博物科を出でて清国済南府師範学堂に教鞭とられし人、真に我部の開拓者なりき。惜しむべし。」


・交友会誌明治39年の蹴球部報告より
 「当部の始祖、中村覚之助君は遠く清国に在りても、深く我が部の為を思はれ、当部活躍発展の一助として、多数の金員を寄送せらる。部員一同の威佩する所なり。比の度、渡辺英太郎君又我が部の為に、少なからざる金員を寄付せられしは、等しく部員一同の感謝する所なり。一同は不肖なりと雖も、比等の厚志を空うぜらんことを期し、更に邦家の為め、奮励一番、全力をあげて此の技の研鑽に盡し、努力龜勉以て其効果を全からしめんことを期す。」


・明治39年発行交友会誌第11号より
  故中村覚之助を想ふ。
 「7月9日我が蹴球部創設者中村覚之助君の訃音に接せり。君は37年3月本科博物科を卒業し清国山東省済南師範学校に教鞭を執られしが、病を得、夏期休暇を利用して故国に帰り療養せんとし、6月28日神戸に着したりしが、7月3日病俄かに革まり同夜、突然不帰の客となられたり。吾が部は君の過去に於ける功労を思いて、実に悼惜に堪えざるなり。吾が部の名において出版せられし「アッソシェーション.フットボール」は実に君が自ら筆を執られしものなり。当時我が国に於てフットボールの知識を有するものなく、依る可き書も稀なりしを、奮然此の挙に出でられし熱心思う可し。璽来瞬時も我が部を念頭より去らず或いは多大の金員を贈り、其の他種々の方法を以て、選手を指導し奨励せられ、常に我が部の為にのみ謀られたりしが、比の度はからずも其の訃音に接しぬ。然れども吾等は信ず、君の霊は永久に我が部の護神となりて指導せられるべきを。我が部は君が生前の功労を追想し其の遠逝を痛惜し茲に恭々しく弔意を表す。」

注記

このページは、平成10年1月に 山本 国男(熊野歴史研究会会長)・北詰 俊三 両氏が、
1.日本サッカー協会の旗章(シンボルマーク)と八咫烏(やたがらす)との関係について
2.中村覚之助氏の当時の状況について
3.日本サッカー協会の旗章の発案者といわれている内野教授と中村覚之助氏の関わりについての3点を調査目的に筑波大学中央図書館(東京高等師範学校・東京教育大学資料室)で調査を行った結果を元に作成しています。
また、中で使用している写真は、中村統太郎氏(中村覚之助氏の生家)に提供していただきました。

ワールドカップサッカー日本代表を激励に、熊野三山の牛玉宝印を持って日本サッカー協会を訪れた時の写真。
(平成10年2月2日撮影)

 左から大前四郎新宮高校サッカー部監督
 日本サッカー協会の長沼健会長
 北詰俊三新宮高校サッカー部後援会長
 日本サッカー協会の小倉専務理事

 手にしているのが、熊野三山の牛玉宝印[八咫烏(やたがらす)]


やたがらす(八咫烏)

熊野三山の 牛玉宝印を持って日本サッカー協会を訪れた時の写真

 神武天皇東征のとき、熊野灘の那智海岸(錦浦)に御上陸され、熊野から大和に入る険路を先導したと伝えられる 鳥です。 熊野の守り神として今に伝えられています。


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